16世紀後半から17世紀前半にかけて、茶の湯はすこぶる華やかな時代を迎えます。その前半は、ちょうど千利休によってわび茶が大成される時期でしたが、天下人織田信長の登場と茶の湯の興隆が、この時代の到来を示しているといえるでしょう。 永禄11年(1568)に上洛した信長は、名物狩りをおこなって茶の湯の名物道具を蒐集するいっぽう、堺の茶匠を茶堂(道)としてとりたてました。また「御茶湯御政道」と称して、特定の家臣に茶の湯を許可しました。信長によって、茶の湯は正式の武家儀礼としての資格をにない、茶の湯に政治的権威が与えられるようになったのです。 茶の湯の政治化は、豊臣秀吉政権のもとで最高潮を迎えます。天正13年(1585)の禁裏茶会、同15年の北野大茶の湯は、秀吉の政治の舞台を茶の湯がはなばなしく飾った象徴的なできごとであったといえるでしょう。こうした秀吉の大茶会を演出したのが、茶堂の利休でした。 徳川幕府の時代になると、茶の湯の政治性は次第に希薄になってきます。利休なきあと、古田織部、小堀遠州、片桐石州が徳川将軍家の茶の湯指南となりましたが、遠州の死によって天下人の茶の湯の時代は終わりを告げたといえるでしょう。
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