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利休の茶の湯は、天正10年代にその大成の域に入ったと伝えられています。その一つの根拠となるものが、利休が考案し、利休の意匠のもとにつくられた茶道具の出現です。従来は既成の器物を見立てて茶の湯に用いていたのを、利休は専門の職人に命じて、新しい茶の湯専用の道具をつくり出しました。そのなかでも楽長次郎による楽茶碗は、利休の「わび」の美と心を忠実にあらわした象徴ともいえるでしょう。長次郎の祖先は「あめや」という中国からの渡来人で、もともと装飾瓦を制作していた工人とも伝えられます。当時の茶の湯では唐物や高麗物のほかに和物では瀬戸美濃といった茶碗が主に用いられていましたが、利休と長次郎の出会いが「楽茶碗」という当時としては斬新なスタイルの茶碗を生み出したのです。 利休と長次郎の関係について具体的なものを示す史料は残されていません。しかし当時の茶会記を見ると、天正14年(1586)の茶会で「宗易形」の茶碗が用いられた記録が残っています。宗易形すなわち利休の意匠による長次郎の楽茶碗が、この頃には使われ始めていたのでしょう。
楽茶碗は轆轤
を用いず、両手で土を立ち上げていく「手捏ね」と呼ばれる技法、そしてヘラによる「削り」の二つの工程からつくられます。手捏ねによる自然な作行きと、削りにより無駄なものをそぎ落とし、造形を突き詰めていくという二つの工程を通して、利休の求めていたわび茶にふさわしい、大きさ、形、色、重さ、手ざわりといった究極の茶碗が創造されたのではないでしょうか。
「黒」と「赤」の二つの色合いでも利休は特に黒の茶碗を好みました。秀吉が黄金の茶室
をつくるなど「金」に特別の思い入れがあり、黒の茶碗は好まなかったといわれます。このような色に対する好みの違いも、両者の対立の背景にあったのかもしれません。 こうした利休の道具の創造は、釜や花入などにもおよびました。

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轆轤 ろくろ
黄金の茶室 おうごんのちゃしつ

金の薄板と金箔をはって装飾した茶室。持ち運びができるように、折り畳み式になっていた。豊臣秀吉は、天下人の富みの象徴としてことに金を好んだ。こうした「黄金の文化」は安土桃山文化の特徴の一つとされる。
Japanese Tea Culture

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